大判例

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横浜地方裁判所 昭和48年(ワ)1694号 判決

原告

山本一男

山本花子

右訴訟代理人

芝田稔秋

被告

細川陽子

右訴訟代理人

長尾章

外三名

主文

一  被告は、原告山本一男に対し金二二〇万円、原告山本花子に対し金一五〇万円およびこれに対する昭和五二年一二月一三日から支払い済みに至るまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は原告山本一男に面会する目的で東京都渋谷区神宮前○丁目○番○○号の××××株式会社内に立ち入り、あるいは原告山本一男と通話する目的で右会社へ電話をかけてはならない。

三  被告は藤沢市○○×××番の原告ら方住居に立ち入り、あるいはどのような名目であつても右住居へ電話をかけてはならない。

四  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

五  訴訟費用はこれを五分し、その二を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

六  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

一〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

1  原告一男は昭和三五年三月××大学ドイツ語科を卒業したあと、同年四月大阪に本社をおく総合商社××に入社し東京支社に勤務していたが(ただし、この点は当事者間に争いがない)、ドイツ支店勤務を命ぜられ、昭和四一年夏ごろ、妻である原告花子と子供を国内に残して単身西ドイツのジユツセルドルフ市に赴任した。被告は昭和三四年三月、×××大学第二文学部芸術学科を卒業後、同四二年一〇月、美術史等を勉強するため西ドイツのケルン大学に私費留学し、ケルン市内で下宿住まいをはじめたのであるが、出国に先立ち大学時代の友人の夫から西ドイツにいる知合いのひとりとして原告一男を紹介されていた。そして、被告が西ドイツに到着して間もない同年一一月中旬ごろの一日、原告一男と被告は互いに連絡をとつて落ち合い、原告一男の案内でジユツセルドルフ市内の日本館やボン市内のルーレツト場で時を過ごしたあと、ボン市内のホテルに宿泊し、成行きの赴くままに肉体関係を結び、さらに、その後も昭和四三年五月ごろまでの間に二、三回ジユツセルドルフ市内で会い、その都度、原告一男のアパートで同様の関係を繰り返した。

2  その後、原告一男は再び東京支社勤務を命ぜられたので昭和四三年五月二〇日西ドイツを後にして帰国の途につき、一方、被告も原告一男より一年ほどおくれ、昭和四四年四月一五日帰国したのであるが、これに先立つ昭和四三年一二月一五日、被告はスペインのマドリツド市内で女子明子を出産した。原告一男は帰国後間もない昭和四三年八月ごろ、被告から手紙で自分の子を身籠つたと知らされたので被告に対し自分に妻子のあることを知らせ、速やかに帰国して胎児を処置するよう勧めたが、これについて被告からは何の応答もなく、昭和四六年六月ごろ、先方の要求で被告、その両親および弟らと会い、認知を求められてはじめて明子出生の事実を知るに至つた。しかし、原告一男は妻子の許を離れ他国でひとり暮らしをしていた気安さから被告と関係を結んだものであり、明子が自分の子だといわれてもにわかに信じがたく、いずれにしろ、被告や明子は帰国後の原告一男にとつて両親や妻子の手前上、あるいは会社での立場からも甚だ迷惑な存在でしかなかつた。すると、幸い被告らが認知をしてくれれば、経済的な負担はかけないということなので、原告一男はそれで関係が断てるのならぱという気持から明子の認知を約束した。ところが、その届出をする段になつて、原告一男は認知の届出をすれば、自分の戸籍上にも明子が子として登載されることを知り、にわかに態度を変えて届出を引き延ばし、昭和四七年一月に至り、被告らに強く求められてようやくその届出手続を済ませた。

3  もともと、原告一男と被告ははつきり結婚の約束をしたうえで関係を結んだわけではないが、被告の内心にはそのような期待もないではなく、原告一男に妻子があつてそれが不可能であることを知つた後にも、被告は帰国後も原告一男が自分や陽子に対して真心のこもつた態度をとつてくれるものと思つていた。しかし、認知手続を済ますまでの過程でとつた原告一男の態度は被告にとつていかにも逃げ腰のように思われたし、認知をしてもらつたことで原告一男との関係がすべて終つてしまうことを思うと悔しく、また、これからの永い将来を明子と二人だけで暮らしていくことを考えるといいようのない不安と淋しさに襲われ、原告一男にすがりつきたい気持をどうすることもできなかつた。そこで、その後も、被告はしばしば原告一男に面会を求め、原告一男もはじめはこれに応じていたが、原告一男のすげない態度に満たされないものを感じて、被告が次第に感情的になり、明子に父親らしい愛情を示せとか、自分を妻として認め週に三回は訪ねて来いとか、原告ら方住居に明子と自分の部屋を用意しろなどと要求し出したため、会つても諍いが繰り返されるばかりとなり、原告一男もまともに相手にできなくなつた。こうした中で被告は原告らの子や原告花子が原告一男と平穏に暮らしているのに比べ明子や自分がいかにもみじめに思え、このことへの嫉妬も加わつて次第に逆上し、何としてでも原告一男をして要求に応じさせようと思うようになり、さまざまな行動に出はじめた。すなわち、被告は昭和四七年八月ごろから何度も原告一男に面会を求めて××東京支社を訪れ、社屋三階の原告一男が所属する×××第三部がある事務室内に押し入つて来客用のソフアーを占拠し、執務中の原告一男を大声でののしつたり、室内にいる大勢の社員に聞えよがしに「わたしは一男の内縁の妻だ。二人はドイツで固く結ばれた。その証拠には二人の間に子供まで生まれた。今日は子供が父親に会いに来た。」などといい(ただし、被告がこのようにいつたことは当事者間に争いがない)、一緒に連れて来た明子が事務室内や廊下を遊び廻わるのを放置していた。そして、原告一男が留守のときなどには帰るまで待たしてもらうといつて午後九時ごろまで事務室内に居すわり、また、副社長兼東京支社長の自宅を訪問したり、あるいは人事部長、人事課長などに電話して社命で原告一男をして被告の要求に応じさせてほしいなどと要望したこともある。そのうえ、被告は押しかけて来ないときは原告一男と通話するため毎日のように同支社に電話をかけ、相手が切るとまたかけるということを何回も繰り返した。このようなことから原告一男のことが社内の評判となり、社員同士の間で噂話の種にされることもしばしばであつたため、原告一男は恥かしい思いで毎日を過ごさなければならなかつた。ドイツから帰国後、原告一男は営業部門に属する×××第三部第三課長の職にあつたが、昭和四九年春の人事異動でその職を解かれ、人事部東京人事課付となつて東京審査部において研修することを命ぜられ、仕事らしい仕事は全く与えられなくなつた。これは被告とのことが原因であることは誰の目にも明らかであり、全く異例の人事であるため、社内での噂がまた一段と広まり、原告一男は会社に居たたまれなくなつて、昭和四九年六月一八日、自ら願い出て退職した。その後、原告一男はしばらくの間失業保険金の給付を受けて生活していたが、新たに仲間と×××株式会社を設立し、独立して商売をはじめた。この会社は東京都渋谷区神宮前○丁目○番○○号に営業所をおくものであるが、××のときと同様、被告はここにも押しかけて来て居すわり、一日に何回も電話をかけ、さらに原告一男を非難するビラを事務室の出入口の扉などに貼り付けるなどの行動を繰り返し、そのため会社業務が少なからず妨げられている。さらに、被告は昭和四八年一月ごろから藤沢市○○×××番の原告ら方住居の周囲をうろつきはじめ、とくに昭和四九年一一月にはそれまで住んでいた相模原市内の住居を引き払つて原告ら方住居のすぐそばのアパートに引つ越して来て、毎日のように夜昼の別なく原告ら方住居の周囲を徘徊しては「一男さん、出て来なさい。」、「パパ、明子ちやんですよ。」などと大声で連呼し、時には傘の柄で雨戸を激しくたたくこともあり、そのため原告らは近隣から好奇の目差を向けられ、肩身の狭い思いをしなければならなかつた。また、被告は昭和四七年一二月一三日、病気のため入院し手術を受けて絶対安静の状態にある原告花子を病院の電話口に呼び出し、「わたしは一男の内縁の妻だ。」とか、ドイツでの二人の関係を嫌味を交えていい聞かせ、そのため、当時いまだ詳しい事情を知らなかつた原告花子は強い衝撃を受け隔離病室へ移されるほどだつた。そして、そのあとも被告は原告花子に面会を求めて再三病院へ押しかけたが、病院関係者によつて病室への入室を阻止され、事なきを得た。そのうえ、昭和四七年一二月ごろからは連日何回となく被告から原告ら方住居へ電話がかかるようになつた。それは呼鈴で相手方を呼び出しておいて電話口へ出ると即座に切つてしまい、またすぐかけるというもので、原告一男が勤めに出ている平日は午後一〇時ごろから翌日の午前二時ないし三時ごろまで、休日は正午ごろから翌日の午前二時ないし三時ごろまで繰り返し続けられ、その回数は多いときには平日で三〇〇回から五〇〇回、休日には一五〇〇回にも及んだ。そのため原告ら方住居の電話はほとんど用をなさず、原告らは耳鳴りや睡眠不足に悩まされ、とくに原告花子は自律神経失調症になつて病院に入院したこともある。そのほか、被告は明子を原告らの子と同じ小学校に通わせ、登下校時や父兄参観日に原告らの子をみかけると睨み付けて脅かし、学校に対しても明子の保護者を被告ではなく原告一男とするよう要求したりしている。そして、以上のような被告の行動、とくに××××株式会社や原告ら方住居に押しかけたり、ここへ何回となく電話をかけたりすることは、その時々によつて程度や態様に違いはあるが、いまなお続き止む気配はない。

以上の事実が認められ、〈る。〉

二ところで、人は誰でも何人にも妨げられることなくして平穏にその日常生活を営むことができるのであつて、何人かが故意または過失により平穏裡に営まれている他人の日常生活を妨害した場合には、その程度、態様の如何によつては不法行為が成立すると解されるところ、被告の一連の行動によりそれまで平穏に営まれていた原告らの日常生活が長期間、さまざまな妨害を受けたことは前認定のとおりであり、その程度、態様に鑑みれば、被告の右一連の行動は不法行為を構成するに足りる違法性を具備しているということができる。したがつて、被告は原告らに対し、それぞれ、そのために原告らが蒙つた損害を賠償する義務があるところ、右認定の事実によれば、原告らがその日常生活の上で受けたさまざまな妨害の中でも、原告一男が永年勤務しその営業部門の課長の職にまであつた××を被告の一連の行動のため退職せざるを得なかつたことは、原告一男の将来についてのみでなく原告花子をはじめその家族の生活上にも経済的その他の面で大きな影響を及ぼしたであろうことは推認するにかたくないところである。しかし、原告一男としても妻子のある身でありながら安易に被告と肉体関係を結び、また明子のことについても両親や妻子の手前などばかりを気にして責任のある態度に出でなかつたことがこのような事態を招来する一因となつたことも否定することはできない。そのほか、本件口頭弁論終結の時点までに被告が原告らに対してとつた一連の行動の態様やそれが原告らの日常生活の上に及ぼした影響など、前認定の諸般の事情を合せ考えると、そのために蒙つた原告らの精神的苦痛に対する慰藉料は、本件口頭弁論終結時の現在価額で原告一男につき金二〇〇万円、原告花子につき金一五〇万円とするのが相当である。また、本件事案の態様、訴訟の経過および請求の認容額など、審理に顕われた諸般の事情を合せ考えると、被告の右不法行為と相当因果関係のある弁護士費用は、本件口頭弁論終結時の現在価額で原告一男につき金二〇万円とするのが相当である(ちなみに、原告花子についてはその請求がない)。したがつて、被告は、原告一男に対して右慰藉料金二〇〇万円、弁護士費用金二〇万円、計金二二〇万円、原告花子に対し右慰藉料金一五〇万円、およびこれに対する本件口頭弁論終結の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五二年一二月一三日から支払い済みに至るまでそれぞれ民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うべきである。

次に人が日常生活を営むうえで享受する前述のような利益は人格権ないし人格的利益の一つであつて人それぞれに固有の排他的支配権としての性質を有するものであるから、現にこれが何人かによつて侵害されている場合には、所有権その他の物権におけると同様、単にそれが侵害されたことによる損害賠償の請求ばかりでなく、人格権ないし人格的利益に基づく妨害排除として直接侵害行為の差止めを請求し得るものと解するのが相当であるところ、いまなお、被告が(1)原告一男に面会する目的で××××株式会社内に立ち入り、あるいは原告一男と通話する目的で同会社へ電話をかけ、また(2)原告ら方住居に立ち入り、あるいは右住居へ電話をかけるなどの行動を繰り返していることは前認定のとおりである。これによれば、右人格権ないし人格的利益に基づく妨害排除として、被告に対し、原告一男は右(1)(2)の行為につき、原告花子は右(2)の行為につきそれぞれその差止めを請求し得るものというべきである(もつとも、右(1)(2)の行為についてはその性質上、ほかに何らの制限も付さないでこれを全面的に差し止めることには疑問の余地がないわけではないが、これに客観的な制限を付することは極めて困難なことであるし、前認定の事実によれば、被告が右(1)(2)のような行為をするのはもつぱら相手方に自己の要求を認めさせる手段としてであつて、それ以外の理由があるわけではないことが明らかであるから、これを全面的に差し止めても不都合は生じないと考えられる)。《以下、省略》

(大塚一郎)

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